長い文を読むということについて

 長い文章が苦手。すぐ飽きてしまう。例えば3ページ以上だろうか。何とか見開きを読み進んでも、ページをめくるともう辞めたくなっちゃう。一応断っておきたいのだが、自慢しているわけでは当然ない。
 国語の時間というのは無意味に近かった。文章を「読む」ことは出来る。名前を指されて、どこそこを読め、と言われれば読むけれども、声に出して「読んでいるだけ」なのである。意味など取らなくたって「読める」から、お茶の子さいさいだなんて思っていた。サザンの桑田佳祐が曲を作るとき、歌詞の意味なんか重視しないで、音感で言葉を並べていると言っているのを昔に聞いた覚えがある(本当かどうか知らない)が、たとえばそういう感覚である。幸い、個々の文の意味は何となく解るから、傍線部の主語を書けとか、ひらがなを漢字にしろなどといった問題でテストの点を稼ぐしかない。この段落全体の内容を踏まえて以下の問に答えよ、なんてのは、無茶ださえと思った。
 本をたくさん持っている人は、それだけで自分には尊敬の対象であった。それだけの財産を本に費やす→いろいろな文章を読んでいる→私なんかよりずっと深い人生経験をお持ちだ、というおかしな論理がつながっていた。でも、蔵書の量と人生の深さはそれほど相関しないってことは30過ぎて知った。
 とりあえず今はそんなところ。オチは、無い。